「私、日向陽一がクリスチャンになったいきさつ」救いの証し

クリスチャン 救いの証し

 

2018年4月15日港北ニュータウン聖書バプテスト教会の日曜礼拝で、クリスチャンになったいきさつのお話(教会では証しといいます)をさせていただきました。

 

動画でも同じ内容をお話ししています。

 

あるクリスチャンの救いの証し:24歳で救われる

 

今日は私がどのようにしてイエスキリストを信じ、クリスチャンになったのか。神様はどのようにして私を導いてくださったのかお話ししたいと思います。

 

 

私がイエスキリストを信じてクリスチャンになったのは、24歳の時でした。

当時私はまだ独身で、会社員をしていました。

 

ある日会社の帰りに電車に乗っていると、隣に黒人の女性が座りました。

たまたまその時私は英語の本を読んでいたので彼女は「英語が話せるんですか」と英語で話しかけてきました。

 

そして彼女は教会で行われるインターナショナルなイベントに来ないかと私を誘ってくれました。

 

あるクリスチャンの救いの証し:初めての教会、喜ぶ人々の姿

 

そこで私は初めてクリスチャンという人々に出会うことになりました。

教会は私が今まで経験したことがないような不思議な雰囲気の場所でした。

 

何よりも私が驚いたのは一人一人がとても嬉しそうにしていて、喜んでいる姿でした。

 

この人たちは自分の持っていない何かを持っているんだなということがよくわかりました。

 

その時その教会の牧師が 「一緒に聖書を学ばないか」と声をかけてくださり、私は聖書を学ぶことにしました。

 

あるクリスチャンの救いの証し:ひそかな悩み

 

実は当時の私は、誰にも言っていませんでしたが様々な悩みを抱えていました。

 

特に生きる意味について思い巡らしている時でした。

 

自分はやりたいことは何でもできるし、友達もたくさんいるし、何不自由のない生活を送っている。

 

 

しかし人生は本当にこれで全てなのか。

 

何のために生きて何のために死ぬのか自分にははっきりとした目的がない。

 

楽しい時間はそれが過ぎれば、虚しい思いに代わっていく。

 

 

実はその日電車で英語の本を読んでいた理由は転職を考えていたからでした。

 

仕事を変えれば、やりがいのある仕事に出会えればこの虚しさを逃れられるのではないかと思っていたのです。

 

そんな時に教会と出会い聖書の学びを始めたのでした。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:聖書との出会い

 

それまでたくさんの本を読んでいた私にとって聖書を学ぶことはとても新鮮な経験でした。

 

特にどうやって生きるのかということについて書かれている箇所には心が惹かれました。

 

とても良い事が書いてあるのでこの通りに生きることができれば幸せになれるのだろうということを思いました。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:聖書が本当に伝えようとしていること

 

しかし聖書の学びを進めていくうちに、聖書がどのように生きるかということ以上のこと語っていることに気がつき始めました。

 

ルールブックや成功法則を教えるのではなく、「魂の救い」「罪の赦し」「 永遠のいのち」といったことについて教えているということがわかってきたのです。

 

 

聖書が伝えようとしているのは、私の罪のために、神の子であるイエスキリストが十字架にかかって死なれたということだということがわかってきました。

 

理屈ではそれに何の問題もなかったのですが、その中で私にとっての大きな問題は、イエスキリストの

 

十字架が自分の罪のためであったということを、心から認めることでした。

 

 

知的な意味では、自分が自己中心であること、人を見下してきたこと、自分のために人を利用してきたことははっきりと認めることができました。

 

しかし、心からそれを認めることができなかったのです。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:パリサイ人と取税人の祈り

 

聖書には次のような例え話があります。ルカの福音書18章9-14節

 

18:9自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

18:10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

18:11パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

18:12わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

18:14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 

あるクリスチャンの救いの証し:聖書の中の人物と自分が重なって見える

 

私はこの例え話に出てくるパリサイ人と同じような心でした。

自分の正しさばかりを主張し、他の人を見下していたのです。

 

「自分は確かに罪を犯したかもしれない。しかし自分は今まで真面目に生きてきたし、一生懸命生きてきた。」

 

そのような思いを手放すことができなかったのです。

 

 

そんな私に教会の牧師は「もうここから先はお祈りに頼るしかありません。是非祈ってください。もし辛くなったり助けが必要になったら夜中でも何時でもいいので電話を下さい」と言ってくださいました。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:切なる祈り

その日私は夜の10時ぐらいから夜中の2時ぐらいまで祈り続けました。

 

「神様もしあなたが本当にいらっしゃるなら、あなたは私のために将来と希望の計画を持っていてくださるのなら私に現れてください」

「私がイエスキリストの十字架が分かるようにどうか助けてください」と祈りました。

 

しかしどんなに祈っても私の心は変わりませんでした。

 

 

牧師に電話をして「やっぱりわからない。祈ったけれどわからなかった」と話しました。

すると彼は「じゃあ今夜はもう休んで、明日の朝また起きてからお祈りしたらどうですか」と言ってくださいました。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:救い主イエスの十字架が示される

 

翌朝私は6時頃起きてまた祈り始めました。

 

同じ言葉で。

 

1時間ぐらい祈った後、突然私を心の目でイエスキリストが十字架にかけられて姿を見ました。

 

そしてその十字架にかかったイエスキリストは「父よ。陽一をお許しください。彼は何をしているのか自分でわからないのです」 と祈ってくださった、その声が心の内に聞こえてきたのです。

 

 

その瞬間、私の目から温かい涙が溢れてきました。

 

「そうか自分はこれほどまでに愛されていたのか」

 

「もう自分を証明する必要はない。この罪深いそのままの私をイエスキリストは愛し、私のために十字架にかかって、私のためにその十字架の上で祈ってくださったのだ。」

 

「これからはこの愛のために生きていこう。私を愛し私のために命を捨ててくださった、イエス様のために生きていこう」

そのような思いが与えられました。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:公の信仰告白

 

その日私は礼拝で教会の前に出て信仰告白をし、クリスチャンになりました。

 

1994年5月29日、今から24年前の出来事です。

 

その時の喜び感動はまるで昨日のことのように私の心の中に息づいています。

 

 

あるクリスチャンの救いの証し:最大の祝福はイエスの愛と救い

 

私の人生には様々な神様からの祝福があります。

 

しかしはっきりと言えることは、最も大きな祝福は、イエスキリストを信じ、神様の子供とされたことです。

 

私にとってはイエスキリストが全てです。

 

このようなものに私を作り変えてくださった神様に心から感謝しています。

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