
ネットには男女関係の情報が溢れていますが、聖書は結婚に備えるもっと深い道を教えています。
「クリスチャンと結婚さえすればうまくいく」という考えは本当でしょうか?
実は結婚後も試練があります。
マリアとヨセフの婚約時代から結婚後の歩みを見ると、性格の不一致や困難を乗り越える秘訣が見えてきます。
それは二人を一つにした「神の言葉」への従順でした。
この記事では、聖書に記されたマリアとヨセフの姿から、祝福される結婚準備において最も大切なことを学んでいきます。
目次
ヨセフとマリアに見る信仰者の婚約時代~性格の不一致を超えるもの~
私は聖書を用いて夫婦関係の修復をお手伝いする夫婦関係修復カウンセリングという働きをしています。
日本人の離婚の1番の理由が性格の不一致と言われています。
今結婚するカップルの3組に1組が離婚しています。
3人兄弟がいれば、そのうちの1人は離婚しているという計算になります。
色んな人に聞いてみると、その統計が合っていることがよくわかります。
クリスチャンと結婚さえすればOK?
よく言われることは、クリスチャンと結婚しましょうということです。
「不信者と、つり合わないくびきをいっしょにつけてはいけません」という第2コリントのみことばがよく引用されます。
ここで考えたいことは、じゃあクリスチャンと結婚すればオッケーなのかということです。
当然、忠実に教会生活をされて神様を愛し、クリスチャンホームを築きたいと願っておられると思います。
ですが、クリスチャンと結婚しても課題はあります。
神のかたちに造られていますから、一人一人は尊いのです。
ですけれど、この罪が入ったことによって私たちは堕落の性質、罪の性質を持っているわけです。
私たちは福音によって、罪に支配されていたものから自由にされてきよめられています。
同時に、本当に自分って罪人だなということを毎日、これでもかというぐらい聖霊によって示されます。
つまり私たちはイエス・キリストの十字架の血が私たちをきよめてくださるということを経験しながら歩んでいくわけです。
性格の不一致というのは、結局自己中心と自己中心のぶつかり合いでしかありません。
罪と罪、罪人と罪人が衝突しているので、そこに必ず傷つけ合ってしまうということが起こります。
ですけど、私たちはそのような罪深い私たちが神の前に一つとされてそこで生きていく、つまり結婚した後もきよめの過程を歩んでいくわけです。
そのような私たちの歩みの中で、結婚というのはどういうことなのかを一緒に考えていきたいと思います。
私も独身の時に救われていますので、クリスチャンとしての独身時代がありました。
そして私も失敗をしています。何か偉そうに言うことは全くできません。
むしろ私が今回の話を聞きたいぐらいなのです。
ですけれど、私の失敗も皆さんに共有することによって、ああそういう風になっちゃいけないんだな、ということを分かっていただければと思います。
私たちの希望は私たちにあるのではなく、イエス様にあります。
私たちの希望は私たちが何か上手いことやる、ということではありません。
イエス・キリストの血が全ての罪から私たちをきよめます。
そして御霊なる神様が私たちを造り替えてくださいます。
その過程を一緒に夫婦として経験していくというのが信仰者の結婚なのです。
今回はヨセフとマリアの婚約時代を見ることによって、そして結婚した後のことも見ていきたいと思います。
ヨセフの姿から学ぶ
中心的に見ていくのはマタイの福音書の1章と、ルカの福音書の1章2章の部分になります。
イエス様の誕生にまつわる記述について「マリアとヨセフが婚約していた時どんな関係だったのか」という視点で読んだことはあまりないと思います。
ですけれど、聖書は私たちに様々な面から、その信仰者の歩みを教えてくれます。
今回はイエス様の受肉の前後を中心に見ていきます。
マリアの妊娠が発覚する
マタイの福音書1章18節にこう記されています。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」
婚約というのは結婚の約束です。
ですので、このイエス・キリストの降誕の周りの出来事というのはヨセフとマリアの婚約時代の出来事だということです。
この18節からいきなり問題が出てきます。
二人がまだ一緒にならないうちにマリアが身ごもっていることが分かったのです。
婚約している姉妹の皆さん、自分が妊娠しているということが分かったらどう思うでしょうか。
兄弟たちは、婚約しているのに婚約者が妊娠していると突然聞かされたら、ものすごいショックなはずです。
このマタイの1章というのはヨセフの視点から書かれているので、まずヨセフの姿を見ていきます。
ヨセフは正しい人だった
マタイの福音書1章19節にはこうあります。
「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」
ここにヨセフの人物像が出てきます。
聖書が正しい人とヨセフを言っているのです。
誰かが言ったのではなく、聖書が、夫のヨセフは正しい人だったと記しています。
ここから分かることは、彼が非常に信仰深い人、神様を信じて、神様の前に誠実に歩む人だったということです。
マリアもヨセフも、旧約聖書の聖徒たちというふうに表現されます。
それはどういうことかと言うと、イエス・キリストの福音をこの時点ではまだ知らないわけです。
イエス様は十字架にかかっていない、そして復活もしていません。
ですけれど、その状態で神様を信仰している、モーセの律法に従っているということです。
ですのでヨセフが正しい人というのは、神様の律法に従う、別の言い方をすれば神様を愛する人だったということです。
そしてマリアをさらし者にしたくなかったという、ここにヨセフの思いやりが出てきます。
婚約している状態で、結婚してまだ一緒になっていないのに妊娠をしているということは、姦淫の罪を犯している、淫らな行いの罪を犯していると見なされます。
結婚前に男性と関係を持ったということで、これが公になるとさらし者になって、石打ちの刑が妥当な刑だということになってしまうわけです。
だからさらし者にしたくなかったというのは、それを公にしたくなかったのです。
ここで婚約者のマリアを思いやっているヨセフの姿が出てきます。
ヨセフの言葉は聖書の中に一言も出てこないことに注目してください。
「ヨセフはこう言った」という記録がないのです。
これをリテラリーミュートと言います。
この登場人物でセリフが1個もない人です。
演劇でもセリフがない登場人物がいますが、重要な役割を果たしています。
無口なんだけどすごい働きをする人がいますね。
ヨセフの言葉は1つも記録されていませんが、「思った」とか「ひそかに離縁しようと思った」とか「さらし者にしたくなかった」ということを彼は言っていないのに、神様は知っていたということです。
誰にも言っていないのです。
マリア身ごもったんだと思って、マリアさらし者にしたくないなと思い、だからひそかに離縁しようと思ったのです。
御使いからの語りかけ
マタイの福音書1章20節から21節にはこう記されています。
「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。』」
この「思い巡らして」、ここに彼の思慮深さが見えます。
私自身も、何かよく考えないで行動してしまうとか、よく考えないでしゃべってしまう。で、後悔するんですよね。
ですけどヨセフは、別の言い方をすれば、祈っていたと理解しても良いでしょう。
神様の前にどうなんだろうと検討している。
そこに、神様が御使いを送ってくださったのです。
私たちが思い巡らす時に神様の言葉、神様からのメッセージがやってくることがよくあります。
恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさいと言われました。
ヨセフのモヤモヤがここで消えました。
マリアは本当に神様を愛して純粋な女性なので、他の男性と関係を結婚前に持つとかってありえないでしょう、だけれど身ごもったということが告げられた。それおかしいじゃんっていう風にヨセフはモヤモヤしていました。
だけど、あ、神様のみわざで、聖霊によって身ごもったんだ。
と、神からの答えが与えられてるんです。
ヨセフがすぐに腹落ちしたかどうかは分かりません。
神の前に真実に歩もうと思い、その道を選ぼうとしている人に神様は答える。
「人は自分の計画を思い巡らす。しかし主はその舌に答えを下さる。」
箴言の言葉がありますね。
だから信仰に歩もうとするものの混乱とかいろんな思い巡らしなどに必ず神様は導きをくださります。
そして、混乱に対する答えと、混乱が消えたヨセフに対して神様から2つの命令がありました。
妻として迎えなさい。そして名をイエスとつけなさい。
ヨセフの従順
マタイの福音書1章24節、25節
「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」
ヨセフは主の使いが命じたとおりにしたんですね。
これはよく出てくることですね。ノアの箱舟なども主が告げられたとおりと。
ヨセフの従順というのをここで見ることができます。
そして、子を産むまでは彼女を知る(性行為を行う)ことはなかった。
もう結婚して夫婦にはなってましたけれど、妊婦であるマリアに対する配慮、そして、夫としての性的な自制というのも含まれると理解できます。
私たちがヨセフとマリアを見る時に、美化しすぎる必要はないと思うんですけれど、神様が一人の男性と一人の女性を選んで、御子を育てるという責任を与えてるんですよね。
彼らは当然罪人であり、彼らも救われる必要がある、弱さや欠けをたくさん抱えている人ですけれど、彼らの姿というのは私たちに何かを教えてるはずです。
結婚前のヨセフはこのような人でした。
私たち、男性の兄弟たちはこのヨセフの姿から多く学ぶことがあるだろうと思います。
思いやりがあり、そして神の言葉に従順に従う人だったのです。
マリアの姿から学ぶ
次にマリアの姿を見ていきます。
ルカの福音書1章はマリアの視点から書かれています。
処女マリア
ルカの福音書1章26節から28節にはこうあります。
「六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」
ここでマリアという人物が紹介されます。
処女ということがマリアに対する1番最初の描写になります。
純潔と、神様の御心における従順という風に言うことができます。
自分の体を神様から与えられたきよいものとして保ってきたという風に言うことができるわけです。
「見よ、処女が身ごもっている」というのがイザヤの預言にありましたので、処女であることはメシアの受肉もしくはイエス様の降誕のためには絶対に必要な条件でした。
色々な説がありますが、マリアは10代前半、中学生とか高校生ぐらいの年齢だったようです。当時はそれくらいで結婚して出産するということが文化的に慣例だったようです。
高校生の女の子、処女の女の子が身ごもって男の子を産みますと言われたら、控えめに言って当惑する状況ですね。
神からの語りかけとマリアの質問
ルカの福音書1章30節から31節にはこうあります。
「すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。』」
ルカの福音書1章34節にはこうあります。
「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。』」
マリアは質問をしました。
どうしてと。
これは「How」、その方法はどういう方法ですかということです。
「私は男の人を知りませんので」という風に言っていますので、彼女は男性と女性が結婚して性行為をして子供が生まれるということを知っていました。
でも私は性行為したことがないので、どのようにして、という質問です。
神様を信頼している人は質問することを恐れません。
私たちが覚えたいことは、神様に聞いちゃいけないことは何もないということです。
マリアは知りたかったのです。真実の探求です。
そのようなことが私に起こるのであれば、神様はどのようなみこころと、どのような方法を持ってそれを私にされるのでしょうか、ということを知りたいのです。
「私は男の人を知りませんのに」、これは、自分自身をきよく保ってきました、守ってきましたという風に言っています。
神の答え
ルカの福音書1章35節にはこうあります。
「御使いは彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』」
神様はこの誠実に答えを求めるものに、答えをくださるわけです。
そんなことあなたは知らなくていいんですという風に言わなかったのです。
聖霊があなたの上に臨むんですと。
神の霊があなたの上、そしていと高き方の力があなたを覆うんですと。
別の言い方をしましょう。
普通の夫婦が、健康な夫婦が起こすことを、神様はその同じプロセスを人間の男性なしに起こすことがお出来になる方ですということです。
神にとって不可能なことは一つもありませんという言葉もありますが、神様の力です、ということです。
マリアはここで安心したはずです。
どうやって、「How」というのが彼女のモヤモヤだったので、それを神様はすっきりさせてくださったのです。
マリアの献身
そして、マリアを表現する時にキーとなる言葉が38節になります。
ルカの福音書1章38節にはこうあります。
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」
私は主のはしためですという言葉は、ものすごい大事な言葉です。
これはマリアのアイデンティティです。
私が誰なのかということをはっきりと知っているマリアの言葉です。
私たちが覚えたいことは、私のアイデンティティは何だろうかということです。
私は主のしもべ、私は主のはしためだ、という風に思っているでしょうか。
このようなアイデンティティを持って生きているでしょうか。
そしてあなたのおことばどおりこの身になりますように。
私の願ったとおりじゃないのです。
私が思ってたことじゃないのです。
あなたのおことばどおり。
神の言葉のとおりに私をしてくださいということを彼女は願ったのです。
従順と献身。
この身を捧げる、その姿を私たちは見ることができます。
こうやって見てくると、この受肉の出来事の中で、マリアという人がすごい立体的に見えてきます。
このような人を神様が選び、その救い主、御子を宿すものとして選ばれたのだ。
私たちが覚えたいことは、私たちの内にもイエス様を住んでください。
そして私たちもこのような主のしもべとして、そしてあなたのおことばどおりこの身になりますようにという心を持ってイエス様を宿すものでありたいということを思わされるわけです。
マリアの積極性
ルカの福音書1章39節にはこうあります。
「それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。」
妊婦マリアは立ち上がって、山地にあるユダの町に急いで行ったのです。
つわりがあったかどうか分かりませんが、ここにマリアの積極性を見ることができます。
エリサベツに会いに行きなさい、とは言われていません。
けど彼女はあまりにも感動して、これは(不妊の女である)エリサベツに神様が働かれて、そして私にも神様が働かれたから、この喜びを分かち合いたくなったのです。
だから遠く、ナザレからユダの山地までは100kmとかある距離を、妊婦が行くわけです。
それがどれほどいてもたってもいられない、神様が素晴らしいことをしてくださったんだということを分かち合える。
しかも神の力によって、不妊のエリサベツと処女の私が身ごもったということを分かち合いたいという、このマリアの積極性を私たちも見ることができます。
信仰に対する積極性、交わりに対する積極性と言ってもいいかもしれません。
信仰の友情
ルカの福音書1章40節にはこうあります。
「そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」
ここで親類のエリサベツにあいさつをしました。
この信仰の友情というものがあるわけです。
友情と言っても親戚ですので、おばちゃんなのか、大おばあちゃんみたいな親戚のおばさんみたいな感じです。
でもこの交わりを求め、エリサベツにあいさつし、ここでエリサベツもお腹の中で赤ちゃんがジャンプしたと言っていますので、この喜びに踊っている、この信仰者同士の喜び合う姿があります。
関係を大切にする人だったということが言えます。
マリアは、友情を大切にする人だったのです。
マリアの賛歌
ルカの福音書1章46節、47節にはこうあります。
「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」
これマリアの賛歌、マグニフィカトとかって言われたりします。
ここからずっとマリアが讃美をします。
この讃美を見ると、マリアがどれほどこの旧約聖書に親しんでいたかが分かります。
アブラハムとか出てきます。
低いもの、権力のあるものを引き下ろして低いものを高く引き上げるとか、このマリアの神学的な理解、旧約聖書をよく知っていたということです。
神様の言葉をよく知り、神様を賛美することが、マリアのライフスタイルだったという風に思っていいと思います。
この言葉にメロディがついていたかどうかは分かりませんが、彼女の心の中には常にこの100kmの旅をする時にずっとこの思いで満たされていました。
エリサベツに会った時にもう、思わず出てきたという感じです。
この友情の中で3ヶ月ほどとどまり、またマリアは家に帰ってきます。
ここまでで、マリアの姿が見えてきました。
マリアは主のはしため、献身を持って神様を愛する、旧約聖書の聖徒の姿を見ることができるわけです。
結婚後の試練を乗り越える
さぞかしこの2人が結婚したらいつまでも幸せに暮らしました、めでたしめでたしとなるかと思いきや、そうではありませんでした。
ここまでが基本的に出産の前、イエス様のご降誕の前、予告の時点、マリアの妊娠中でした。
その後の出産のところから見ていきます。
「子を産むまで彼女を知ることがなかった」という風に書いてありますので、ここからは結婚後、出産のもう間近になった状態です。
そこから彼らが試練を一緒に経験していくところ、困難や危険みたいなことが起こっていくのですが、それをどうやってこの備えられた者たちが共に歩んでいったのかを見ていきます。
ベツレヘムへの旅
ルカの福音書2章5節にはこうあります。
「身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。」
ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘム、約100kmぐらいの距離を旅して、身重になった妻マリアとともに登録するということです。
彼らがそこにいる間にマリアは月が満ちてとあるので、臨月だったろうという風に考えられます。
夫婦として、与えられた公の義務を果たしていくんですね。
ヨセフはダビデの家に属していたので、ヨセフの本籍地がベツレヘムにありました。
公の義務として、遠くまで行く。
ある意味良い証しになっていたという風に言うことができるかもしれません。
神の立てた国家であれ、王であれ、総督であれ、そのように外側の人から信仰を持っていない人たちからも、ローマ帝国に対しても、この証しが立てられるというのが一つあります。
馬小屋での出産
ルカの福音書2章7節にはこうあります。
「(マリアは月が満ちて、)男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
場所がないのです。
宿屋には彼らのいる場所がありません。
今は病院で皆さん出産されますが、馬小屋で出産するということは考えられないです。
お産婆さんもいません。立ち合い出産です。
ヨセフしか助ける人がいなかったと考える方が自然だと思います。
ものすごい大変なことを2人で経験しているということです。
もしかしたら誰か呼びに行ったのかもしれないですけど、そこは記録されていません。
危険な出産。それを2人で乗り越えるということがあったわけです。
エジプトへの逃避
ここでもういいんじゃないですか。
もうここでめでたしめでたし。
でもそうじゃないんですね。
マタイの福音書2章13節から14節にはこうあります。
「彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、わたしが知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、」
ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。
エジプトへ逃げなさいと言われるのです。
そこでヨセフは立って、幼子とその母を連れてエジプトに向かいます。
この御使いに対する従順がここにも出てきます。
そして決断します。
みことばがあって、ちょっと待ってください準備がありますので、ということじゃなくて、そこでヨセフは立っていくのです。
すぐに従う姿、決断が出てきます。
イスラエルへの帰還
マタイの福音書2章20節から21節にはこうあります。
「『立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。』そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。」
立ってイスラエルの地に行きなさい。
そこでヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に。
ここも同じです。
その言葉のとおりに決断して行っていくのです。
22節には夢で警告を受けたのでガリラヤ地方に退いたという風にあります。
同じことが3回繰り返されているわけです。
ベツレヘムからエジプト、そしてエジプトからイスラエル、そしてイスラエルに戻ってからガリラヤという風になっています。
これらは全て神様のご主権の中で導かれていっている姿ということもありますが、
ヨセフはすぐに神様の言葉に従って、しかも、幼子とその母を連れてということで、ここでリーダーシップを発揮しているのです。
この家庭を導く、神様の言葉がこうだったから僕たちは行くよ、準備しようねと言って、ちゃんと連れて行っています。
別の言い方をすれば、マリアとヨセフが心が一致していたということができるわけです。
神様を礼拝する家庭
ここは少し落ち着いて安心して読めるとこです。
ルカの福音書2章41節にはこうあります。
「さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。」
毎年エルサレム、ナザレから80kmを旅してエルサレムに行きます。
過越の祭りを祝うため。
ヨセフは大工だったと考えられていますが、ヨセフの家庭は経済的に決して豊かではなかったであろうという風に考えられています。
鳩を捧げていますので、牛とかを捧げるだけの財力がなかったのです。
ですので、家族全員で毎年エルサレムに行くというのは費用がかかります。
ですけれど、貧しいんだけれど、この神様を礼拝するということを優先する。
お金ないから行かない、ということではなく神様を優先する家庭形成がここで見えてくるわけです。
この結婚前のヨセフとマリアの姿から、喜んで毎年エルサレムに行って、この過越の祭りで神様を礼拝している姿。
これが毎年。
ちっちゃい頃から気がついたら教会に行ってましたというやつです。
クリスチャンホームで育って毎週教会に行ってましたという、息を吸うように教会に行く、という感じで、イエス様も毎年自然な形で、自然なこととして、エルサレムで過越を祝っているわけです。
ですので十字架にかかる前の晩もイエス様は過越を祝われました。
このような土台、その生活というのはもう幼子であった時から過越を祝っていたイエス様と繋がってくるわけです。
夫婦の一致
有名な話ですが、イエス様が帰りの一行の中にいなかったという話です。後ろに残っておられた。
親になると、その子供がいないということで、親は子供を心配します。
だからイエス様を見つけた時にマリアはイエス様を叱ります。
どうしてこんなことをしたのですかと、マリアは言うわけです。
ルカの福音書2章48節にはこうあります。
「両親は彼を見て驚き、母は言った。『どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。』」
ここで実はこの言葉に注目してください。
見なさい。お父さんも私も心配してあなたを捜していたのです。
ここに夫婦の一致を見ることができます。
お父さんも私も心配してたんだよと。
しかもお父さんも私も心配して、お父さんは、お前が母なんだから捜しなさいということじゃなくて、2人で捜しているのです。
結婚12年目のヨセフとマリアの夫婦関係をここで見ることができます。
ヨセフは一言もしゃべりません。
ですけれどヨセフも心配して12歳のイエス様を捜していました。
2人を一つにしたもの
ここで私たちが確認したいことは、私たちのクリスチャンの人生には苦難ということが必ずあるわけです。
なぜなら、神様を愛する子供を訓練しますので、クリスチャンほど愛されている人はいないわけです。
神様の愛を受けていますので必ず試練があります。
それはヨセフとマリアも同じでした。
ですけれど、彼らは様々な違いがあったと思いますが、その違い、性格の不一致というのが彼らにあったかどうかは見えません。
彼らを一つにしていたことは何かと言うと、神の言葉なのです。
神の言葉に、彼らは「おことばどおりこの身になりますように」とか、この御使いの言葉に従順に、聖書の中には言葉を発することなく従っていく姿が見えます。
彼らが共通に持っていたことは神の言葉だったのです。
だから様々な試練や様々な状況の変化の中で揺らがないものが彼らにあったのです。
神様がそう言われるので私たちはそうしますというのが、もうこのイエス様が生まれる前に「名をイエスとつけなさい」とか「恐れずにマリアを迎えなさい」とか、そういうことからもう彼らの関係、いいなずけ、婚約時代からそういうことに導かれてきました。
結婚した後の様々な試練とか困難の中でも、一緒にそれを指針として歩んでいくことができたのです。
ヨセフはイエス様の公生涯の前に、もうすでに生涯を終えていただろうという風に考えられています。
ヨハネの福音書で、「あなたの母です」という風にヨハネに、母マリアを委ねているイエス様の姿、十字架の上でその姿がありますので、もうマリアの面倒を見ることができなかった。
ヨセフはその時もう亡くなっていたんだろうという風に、ほとんどの人たちは理解しています。
ですけれど、このヨセフとマリアのこの夫婦の関係、そして彼らの婚約時代に見えるその姿というのは、私たちに多くのことを教えているんだろうという風に思います。
ヨセフの従順、大言壮語するのではなく、黙々と従っていく。
寡黙な印象ですが決断し、そして幼子とその妻と幼子に対する配慮というのが、このヨセフの婚約時代から見て取れる性質です。
そしてマリアにおいては、純潔、献身、霊性、友情ということが、非常に際立って見えてきます。
結婚への備えとして最も大切なこと
ですので私たちが今どういう信仰者なのか、どのようなみことばに対する態度を持っているかということが、この結婚の備えとしては1番大切なことなんだということです。
いい人がいるかいないかとか、何か出会いがあるかないかということは、全てが神様のご主権の中にあります。
ですけど、私たちがこの備えとしてできることというのは、神の言葉に対して、もっと言えばイエス・キリストの福音に対して喜びを持ってそれを愛するものとなっていくこと。
私たちを愛して私たちに語ってくださる神様の声を聞くことを愛するものとなっていくということが大切なんだろうということを、もうこのヨセフとマリアの姿から教えられるわけです。
結婚の備えとして最も大切なことは、神の言葉に対する従順と愛です。
私たちの希望はイエス・キリストにあります。
イエス・キリストの血が全ての罪から私たちをきよめます。
そして御霊なる神様が私たちを造り替えてくださいます。
その過程を一緒に夫婦として経験していくというのが信仰者の結婚です。
マリアとヨセフの婚約時代と結婚後の歩みから、私たちは今も変わらない「祝福される結婚準備の秘訣」を学ぶことができるのです。
筆者プロフィール

- ひゅうが よういち
-
夫婦関係修復カウンセラー。
2010年から500組以上の夫婦の相談、離婚の危機にあるご夫婦のカウンセリングを手がける。聖書を基盤とした本質的な夫婦関係修復法を提供し、多くの夫婦の関係再構築を支援している。
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