
自分は間違っていないのに、なぜか同じ夫婦げんかを繰り返してしまう。
そのようなご経験はないでしょうか。
夫婦げんかの本当の原因は、実は意見の食い違いや価値観の違いではなく、自分の正しさを相手に認めさせようとする姿勢にあります。
本稿では、ルカの福音書に記された一つのたとえ話から、夫婦げんかを繰り返してしまう本当の原因と、関係を変えるために必要な「へりくだり」について、三つの点からお話しいたします。
夫婦げんかを繰り返してしまうという現実
けんかの最終的な結果は、いつも同じです。
そしてだんだん疲れていきます。
夫婦関係が壊れていきます。
お互いに気まずい思いになって別々の部屋に行く、あるいはエスカレートしてしまって相手がしばらく実家に帰ったり、外で泊まってきたりする。
そして、それが長期化していく。
そのようなことを経験されている方も多いのではないでしょうか。
どうして自分は正しいのに相手は分かってくれないのだろう、という思いを抱えておられるかもしれません。
けんかの原因というのは、意見の食い違いや価値観の違いではありません。
その本質は、自分の正しさを証明しようとする姿勢にあります。
ということは、自分が頼りにしている自分の正しさというのが、相手を傷つけてしまう武器になり得るということなのです。
ですから、思いやりのない正論というのは、夫婦関係の中では、凶器のようになってしまうことがあります。
聖書の中には、自分が正しいと主張した人と、そして自分は間違っていると認めた人の話が出てまいります。
そこから、どうして夫婦げんかを繰り返してしまうのか、そして今それを止めるためにはどうしたらよいのかということをお話ししていきたいと思います。
いつものように、三つの点でお話をしてまいります。
一つ目は、夫婦げんかの本当の原因です。
二つ目は、人を傷つけてしまう「正しさ」です。
三つ目は、関係を変える「へりくだり」です。
二人の人のたとえ-パリサイ人と取税人
新約聖書のルカの福音書、18章9節から14節をお読みいたします。
このたとえ話に出てくる二人の人から、あなたご自身の姿はどちらに近いだろうかということを考えながら、この聖書のストーリーを読んでいただきたいと思います。
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
一、夫婦げんかの本当の原因
この二人の人が出てまいりますが、これはイエス・キリストのたとえ話です。
この二人は別にけんかしているわけではありません。
二人はそれぞれ神様に祈るために、宮、すなわち神殿に登っていくわけです。
このパリサイ人というのは、当時の宗教的な指導者であり、しっかりと旧約聖書の教えを守っている人です。
いわゆる今の言葉で言えば品行方正な人というか、誰が見ても非の打ち所がない人と言ってもよい存在です。
一方の取税人というのは、みんなから嫌われ、さげすまれる人でした。
このパリサイ人が取税人を見る目は、「こんな者ではなくてよかった」というものでした。
「自分は正しいと確信していて」という言葉が、イエスのこのたとえ話の最初に語られています。
つまり彼は確信しているのです、自分は正しいと。
けんかの本当の原因、けんかの本質とは何かと言いますと、自分が正しくてあなたが間違っているということを認めさせるということです。
それは言葉の暴力であったり、辛辣な言い方であったり、場合によっては沈黙であったりと、いろいろな形の攻撃として表れます。
しかし結局のところ何をしようとしているのかと言えば、「あなたは間違っている、私は正しい」ということを、お互いに言い合っているのです。
私のカウンセリングの中でもよく聞くお話ですが、けんかの内容は覚えていない、もしくはけんかのきっかけを覚えていないということが多くあります。
何のけんかをしたのか覚えていない。
けれどもけんかをしていて仲直りができない、今朝もけんかをしたという方も少なくありません。
カウンセリングを受けた後なのに、またけんかをしてしまったというご連絡をいただくこともございます。
私自身も、実は一度婚約を破棄した経験がございます。
その時にも、婚約した途端にけんかが絶えなくなってしまいました。
なぜそれが起こっているのか、本人には分からないものです。
だけれど仲良くできない。
またけんかをしてしまう。
その時は気づかなかったのですが、今はよく分かります。
けんかの原因というのは、自分が正しくて相手は間違っているということを認めさせようとしていることにあります。
別の言い方をすれば、パワーゲームというか、どちらが上なのか、どちらが正しいのかというやり取りになるわけです。
最近は「論破」という言葉もありますが、どちらが強いのかというせめぎ合いに近いものです。
自分は正しいという前提に立っているのです。
「自分は間違っていない!」という思い込みが強くエスカレートしていくと、モラルハラスメント的なことを言ってしまったり、あるいは「傷つけられた」「自分が被害者だ」という立場が強くなり、「私は傷つけられたのだから相手もやり返していい」というようになってしまいます。
夫婦げんかの原因というのは、自分が正しいということをお互いが言い合っていることにあります。
相手をある意味ねじ伏せようとしてしまう。
そのような状態こそが、夫婦げんかの本当の原因であり、その根本にある態度なのです。
二、人を傷つけてしまう「正しさ」
このパリサイ人は、「この取税人のようでなくてよかった」と神様に感謝しています。
こういう人と友達になりたいでしょうか。
こういう人と結婚したいでしょうか。
私であれば、嫌だと感じます。
しかし私自身も、自分がこういう人間であるということを教えられます。
正しいのです、やっていることも、考えも。
けれども、愛がないのです。
思いやりがないのです。
自分の方が優れていると思っているために、ある意味で優越感を感じている。
そうなってしまうと、この正しさというのは、人を傷つけていってしまうわけです。
正しいことを言われているために、何も反論できません。
「奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではない、あるいはこの取税人のようでないことを感謝します」と言っているように、自分と人を比べているのです。
自分がいわゆるマウントを取っているというか、優れた立場にいて人を見下しているために、彼の中では全部、人間の序列が決まっているのです。
これは、私のクライアントさんや、これまでのカウンセリングの経験の中でもそうなのですが、優れている人ほど、能力の高い人ほど、あるいは鋭い良心を持っている人ほど、「自分は絶対に正しい」「正しいことをいつも選んでいる」というような人ほど、このように人を序列で見て見下してしまうということがあります。
なぜそれが分かるかと申しますと、私自身にもそういう傾向があるからです。
クリスチャンになる前は、それが本当にひどく、人を傷つけてきました。
クリスチャンになった後も、それで自分自身が苦しんでおり、そこを変わらなければいけないと、常にそう思っております。
妻との会話の中でも、冷笑的になりやすく、何かをからかうようになってしまうことがあります。
そうするとものすごく傷つけてしまうため、私は何度も妻に謝らなければならないということがございました。
「すごく意地悪だ」「傷つく」というようなことを言われたことが何度もございます。
気をつけなければならないのは、この人を序列で見るという視点そのもの、自分の正しさ、自分が上なのだという考え方そのものが、人を傷つけるということなのです。
別の言い方をすれば、このパリサイ人は宗教的な指導者でしたが、神様の視点が欠けていたのです。
人間がどれほど差があったとしても、それはどんぐりの背比べにすぎません。
聖書は、義人はいない、一人もいないと言います。
つまり、正しい人は一人もいないのだと、聖書は語るのです。
このことが分かっていないと、自分は正しい、他人が間違っているという、ゆがんだ視点になってしまいます。
しかし神様が天からこの地上を見て、人間を全部ご覧になれば、全員が罪人なのです。
「五十歩百歩」という言葉がありますが、本当にその通りで、みな罪人なのです。
そうであるならば、この自分の正しさという、ちょっとした高低差、どんぐりの背比べのようなわずかな差で人を裁いたりしてはいけないのだということが分かってきます。
けれども、その視点がないために、人を裁いてしまうのです。
自分と人を比べて、自分を高くし、相手を低くする。
そのような心の罪深い性質が、私たちの中にはあります。
けんかを繰り返してしまうとしたら、まず自分のその心の態度、あり方というものを見つめる必要があるのです。
これは、この文章をお読みになっているあなたを責めているのでも、裁いているのでもございません。
私自身もそうであり、そのような権利はございません。
けれども、それに気づかなければ、いつまでたってもそれを繰り返してしまいます。
ですので、ご自身の姿をこの聖書から照らされて、「自分はどうだろうか」と考えていただきたいのです。
三、関係を変える「へりくだり」
この取税人の態度についてお話しいたします。
この取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。
「神様、罪人の私を憐れんでください。」
これはユダヤ的な表現ですが、自分の胸をたたくというのは、悲しみの表現です。
本当にだめだ、自分には助けが必要なのだ、ということなのです。
これがどういうことかと申しますと、彼の中で自分のアイデンティティ、すなわち自分がどういう人間であるかということについて、彼は自分が罪人であると思っているのです。
別の言い方をすれば、先ほどのパリサイ人は、自分が義人、正しい人だと確信していました。
しかし取税人には、もう隠せない状態なのです。
もしあなたが、夫婦関係が壊れてしまい、けんかが絶えなくなり、もう疲れ果てて、もうこの関係はだめかもしれない、離婚した方が楽かもしれない、あるいは離婚したいと言われてしまったという状態であれば、ある意味でこの取税人のような姿なのかもしれません。
もう隠せない。
自分は正しいと思っていたけれど、自分に何か問題があるのではないかと、思い始めておられるかもしれません。
聖書、そして福音の素晴らしいところだと思うのですが、だめな人間は一人もいないと言うのです。
社会からはみな見放されて、もうだめだと思っている、その人自身であったとしても、この人の方にこそ希望があると聖書は言うのです。
もうだめだ。
別の箇所では、「私は本当に惨めな人間です」と自覚している、一人のクリスチャンの言葉が記録されています。
本当に自分はだめなのだ、自分には本当に愛がないのだ、夫あるいは妻としてパートナーを幸せにできないのだ。
そのように気づいたところにこそ、希望があると言うのです。
これを聖書は「我に返る」という言葉で表現しますが、「自分は正しいと思っていたけれど、間違っていたのだ。このままではいけない。神様、助けてください。」というものです。
私のところにカウンセリングを申し込みに来られる方々は、皆さんこの状態で来られます。
カウンセリングを受けるというのは、プライドを持った状態では受けられないものです。
私のところに来られる方々は、勇気を持って、「自分を変えたい、助けてください」とおっしゃいます。
この取税人は神様に助けを求めましたが、カウンセラーである私に、「助けてください」とおっしゃるのです。
本当に自分は変わらなければいけないのだと感じられた方だけが、いらっしゃるのです。
そこにこそ希望があります。
神様は誰も見捨てない、誰も見放さないお方なのだと、深く感じております。
イエス様の最後の言葉は、次のようなものです。
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。
「自分はだめだ、神様ごめんなさい、助けてください」と言った人が、神様の前に義と認められた。
これは不思議なパラドックスです。
自分が正しいと思っていた人が罪ある者とされ、そして自分が罪ある者だと神様に助けを求めた人が、正しいとされる。
「義」というのは、まっすぐという意味です。
自分自身を正しく見つめた、と理解することも可能でしょう。
この聖書の内容としては、義と認められるというのは、神様の前に罪がない、無罪であると認められるということですので、これはイエス・キリストを信じて、本当に信仰を持った人の姿でもあるのです。
イエス様のこの結論は、次のとおりです。
誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
これがイエス・キリストが宣言している真理です。
自分は自分を高くする者だろうか、もしくは自分を低くする者だろうか。
関係を変えるのは、へりくだりです。
高ぶりではありません。
夫婦関係で一番大切な言葉は何かと言えば、「ごめんなさい」という言葉です。
「ごめんね、僕が間違っていた。」
それを心から言うためには、ハウツーとして、道具としての「ごめんね」ではいけません。
それはすぐに気づかれてしまいます。
本当に自分の罪が分かり、本当に相手を傷つけてしまったということが分かれば、「ごめん」という言葉の重みが変わってきます。
本当に相手の痛みを理解して伝える「ごめんね」。
ごめんねが言える人は、仲直りができるのです。
私には娘と息子がおりますが、子供の頃、幼稚園ぐらいの時に、息子が娘を泣かせてしまうことがよくありました。
親として、「お姉ちゃんにごめんねと言いなさい」と言うわけです。
無理やり言わせている部分もありましたが、娘には「いいよ、と言いなさい」と伝え、「いいよ」と言わせる。
それが仲直りでした。
その時に娘がよく言っていたのは、「ごめんねっていうことは、もうやらないっていうことだよ」という言葉でした。
だから、ごめんねと言ったのに何度も同じことを繰り返していた、ということになるわけです。
これは夫婦関係にも、もっと言えば私たちの人生にも、本当に鍵となる言葉です。
私たちは罪人であるために、間違いを犯さずには生きられません。
赦しが必要なのです。
「ごめんね」ということ、「もうやらない」という悔い改め、そして「変化」が、赦されるために必要になってまいります。
一点目に私たちが、夫婦げんかの本当の原因を知り、自分の正しさを主張していたことに気づくこと。
二点目に人を傷つけてしまう正しさ、愛のない、思いやりのない正しさは相手を苦しめ、痛めつけてしまうということを知ること。
自分はそういう姿なのだということに気づくこと。
そして三つ目は、関係を変えるへりくだり。この三点をぜひ心にとめていただきたいです。
自分を低くし、自分の非を認めて、「ごめんなさい、あなたをもっと愛したい、変わります」ということを決心し、そこに歩んでいくことが大切です。
そうすれば、今、変わります。
今日の夜から変わります。
関係が変わります。
今変わるためには、自分が見ている視点が変わる必要があるのです。
聖書というのは、人の視点を変えるものです。
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筆者プロフィール

