今日は聖書から夫婦について学びたいと願っています。
教会には独身の兄姉もおられますし、既婚者の兄姉もおられます。
聖書は結婚や夫婦のすばらしさを教えますが、同時に独身として主に献身して生きることのすばらしさをも教えています。
夫婦も独身者もかけがえのないキリストの体の器官であり、お互いの祝福であることを覚えたいと願います。
夫婦カウンセリングをしていて痛感することがあります。
それは「この世は混乱している」ということです。
夫婦のあり方、家族のあり方、性(ジェンダーと言ったりもします)について、混乱しています。三組に一組の夫婦が離婚しているという厚生労働省のデータにもその混乱が見て取れます。
神様の言葉である聖書から学び、その教えにしたがって生きる時、私たちは心の平安をもって歩むことができます。
今日のみことばは、創世記2章18-25節です。
創世記は66巻の最初の書であり、聖書全体の基礎、土台となる書です。
1章と2章には神様がこの世界を造られた時の出来事が記録されています。
今回は創世記2章から「夫婦の始まり」というテーマで学びます。
次回10月には「夫婦の贖い」というテーマで創世記3章から学びたいと願っています。
創世記二章の今日の箇所は創造のみわざの最終日6日目の出来事の記録です。
「夫婦とは何なのか?」「何のために結婚して夫婦となるのか?」「夫婦として何を大切にしなければならないのか?」
このような根本的な疑問に対して、今日の箇所は答えを与えています。
三つの点で見ていきたいと思います。
一点目は「ふさわしい助け手」の創造、です。
二点目は「これこそ」という人の喜び、です。
三点目は神により「ふたりは一体となる」です。
① 「ふさわしい助け手」の創造
18節をご覧ください。
また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
アダムがひとりでエデンの園にいる状態を見て言われた神さまの言葉です。
神さまが人を男と女に創造されたとき、彼らを同時に造られませんでした。
最初にアダムを作られ、それからエバを造られたのです。男と女の創造には時差がありました。
6日目の中でアダムにとって「良くない」状態を神様はつくり、アダムに妻を求めさせるようにされたのです。
造り主は最初の男性アダムの心に「ふさわしい助け手」である女性、彼の妻となるエバをあこがれ求める思いを置かれたと言えるのではないでしょうか。
「助け手」と訳されるヘブル語は「エーゼル」です。実はこの言葉はこの箇所では女性を指していますが、ほかの箇所では神さまのことを指しているのです。
一例は詩篇33:20です。
「私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け、私たちの盾」とあります。
ある注解者は次のように言っています。
「エーゼル」はほとんどの場合「神が助け」という意味に用いられています。また「神からの助け」という意味に用いられています。反対に「神が助けられなければ、全く絶望である」という意味に用いられています。
ですから「エーゼル」は単なる「ヘルパー」や「補助者」ではなく、それがなければ存在そのものが脅かされるほどの重要な「助け手」を意味します。
引用は以上です。
この「神の助け」という意味の言葉がエバの造られる時に神様によって語られているのは特別な意味を持っていると言えます。そのことは夫婦とはどのようなものなのかを教えています。
アダムにとって、欠かすことのできない存在としてのエバ。夫にとって欠かすことのできない存在としての妻を造ろうと神さまは言われたのです。
神さまのデザインは男と女が夫婦となってはじめて完成するものでした。神さまはそのような存在として私たちを造られたのです。
愛によって互いに交わりを持ちながら完全に一体である三位一体の神様の姿と、お互いに取って欠くことのできない存在として造られた夫婦は似ていると言えます。
深い人格的な、たましいにおける助け手としてのエバの創造です。たましいの深いところで響き合う存在として、男と女が造られたのです。
私たちは夫婦が互いに人格的に欠かすことのできない存在として神さまに造られていることをどれほど日常の中で意識しているでしょうか。
「ふさわしい助け手を造ろう」と言われた造り主の深いご配慮。それを改めてとらえ直したいと願います。
② 「これこそ」という人の喜び
主はアダムに深い眠りを与え、彼のあばらから女性であるエバを造られました。神さまはアダムの体の一部をとって、それからエバを造られた。
神さまはそうしようと思えば、アダムと同じように土のちりからエバを造ることもできました。しかし、そうはされなかったのです。
別々の存在としてではなく、アダムからエバを、女性を男性から出たものとして造られたのです。ここに神さまの特別なご意思があることを覚えます。
アダムのために彼の肉体の一部をとってエバを造られた神さまのご配慮があります。同時に、アダムの一部から造られたエバに対する神さまのご配慮があるのです。
そして、神さまご自身が花嫁をエスコートする父のように、彼女をアダムのところに連れて来られたのです。
エバを見たアダムのことばを23節で見てみましょう。
人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。」
アダムが待ち焦がれていた「ふさわしい助け手」です。
「深い眠り」から目覚めた彼の前に最初の女性であるエバが立っているのです。
神様が連れ来られた「あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥」には見出せなかった「ふさわしい助け手」です。
今、神様はエバを連れてきてくださったのです。
「これこそ、ついに」という言葉が神様によって彼に与えられた妻を求めるあこがれと期待が満たされたことを表現しています。
これは私が想像することなのですが、アダムは眠っている間に「ふさわしい助け手」の夢を見ていたのかもしれません。
彼は「やっと会えた!」という喜びの声をあげたのです。
「私の骨からの骨、私の肉からの肉」という言葉が続きます。自分の身体の一部としてエバを認めています。
「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と「私の」と繰り返して言っています。つづいてエバを「男から取られた」とも表現しています。
アダムはエバを見て思ったのです「この人は自分の一部だ!」、自分自身から一部をとって造られた、自分にふさわしい助け手だと。
どれほどかけがえのない、愛しい、親しい存在としてアダムはエバを感謝していることでしょうか。そ
して、自分の一部からエバを造り、彼女を連れてきてくださった神様の恵みに感謝し、造り主をほめたたえたことでしょうか。
神さまはエバを見たアダムの喜びの声を聞いておられます。造り主である父なる神さまもこの姿を見て微笑んでおられるのを私たちは想像できるのではないでしょうか。
この23節の言葉は聖書に最初に記録されている人間の発した言葉です。ここまでは言葉を発していたのは神様だけでした。人の最初の言葉が妻を与えてくださった神様への夫が発する神さまへの感謝にあふれたものであったことは、夫婦の大切さを表していると言えるのではないでしょうか。
神さまのご計画にしたがってお互いのために造られた夫と妻。
深いところで結ばれて、ともにかけがえのない存在として生きていく夫婦。
お互いがいなければその存在さえも脅かされるような、助け合う存在としての夫婦なのです。
その夫婦の喜びをアダムはここで語っているのです。
私たちもまた、改めて夫婦の喜びを受けとめたいと願います。なによりも、誰よりも親しい存在としての夫と妻です。「骨からの骨」「肉からの肉」として、喜びをもってお互いをもう一度見つめたいのです。
③ 神により「ふたりは一体となる」
24節は、次のように語られています。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻を結ばれ、ふたりは一体となるのである。
この言葉は18節から23節までの出来事のまとめであると考えることができます。創世記の記者であったモーセは、御霊に動かされて、ここに結婚とは、夫婦とは何かを記しています。
「ふたりは一体となる。」聖書は夫婦をこのように表現します。
この「一体」という言葉は「そのもの自体で完全」とか、「全きもの」という意味を表しています。算数の1,2,3の1とは違う言葉です。
これは肉体が一つとなるという夫婦の性的な交わりを意味している。それと同時に、深い人格的なたましいにおける一致をも表しています。
何か理由があれば離婚してもよいかとパリサイ人たちはイエスさまに尋ねました。今日も同じ質問を人々は聞いています。「性格が合わない」「価値観が合わない」というのが現代の離婚理由の最大のものです。
イエスさまの答えがマタイの福音書19:5-6にあります。
そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。
ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
「もはやふたりではなく」別々の存在ではない。
「一体」まるで一人の人であるかのような一致があるということです。
「私」と「あなた」であった別々の二人が「私たち」となる。二度と離されることがない関わり、結びつきです。
それまでは「私」だけのものであった喜びや苦しみが「私たち」の喜び、苦しみとなる。労苦も実りも、人生の出来事の全てを共有している「私たち」です。この一体となった「私たち」が神様の御前にいるのです。
夫婦の問題はいつも「私たち」ではなく、「私」と「あなた」というように分けてしまう、夫婦関係の間違ったとらえ方にあるのです。
この一体となったふたりを引き離す離婚がどれほど造り主のデザインに反することかわかります。
神によって夫婦が一体となる前に、肉体だけが結びつく現代の性のありかたがどれほどゆがんだいびつな関係であるのがわかります。
一体となったふたりの関係に第三者が入ってくる姦淫の罪。それが、どれほど造り主のみこころに反するものであるかがわかります。
夫婦関係とは何か。それはふたりの人、男と女がもはやふたりではなく一体となる、という神さまのみわざです。なんと尊いことでしょうか。私たち造られた男と女を夫婦としてくださる神さまの御手のわざは。
創世記1:31に6日目の創造のみわざを成し遂げて、この最初の夫婦を含む造られたすべてのものを見て主が言われた言葉が記録されています。
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。みよ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
5日までの「良かった」世界に、夫婦が加わり、神さまの創造のみわざは完成、完了しました。
それら御手によって造られたものすべてを見て主「非常に良かった」と言われました。
「非常に良かった」のです。
「人は創造の冠である」と言われます。最後に神さまの形に造られた男と女、が神によって一つとされた夫婦として神の御前にいます。一つとされた夫婦が、完成された世界のなかで、お互いを見つめているのです。
夫婦の始まりは、神さまの創造のみわざの完成であるとともに、創造主が私たちに下さった祝福の歩みの始まりであったのです。
私自身、数えきれないほどこのみことばを多くの方と分かち合ってきました。しかし、今回のこのみことばの学びを通して、自らの夫婦のとらえ方を新たにされました。
神さまのみわざに感動しています。家内の夏江姉と夫婦とされていることの驚きと感謝を新たにされています。
それと同時に、些細なことで家内を自分と切り離して見てしまう自らの罪深さを照らされています。新たな思いで妻を愛する者となりたいと願います。
「ふさわしい助け手」かけがえのない、欠かすことのできない人格的な存在としてのお互い。
「これこそ、まさに私の骨からの骨」という親しい、愛しい、互いの一部としてお互いを見る夫婦の喜び。
「一体となる」というように、神によって全きもの、一つとされた夫婦としての祝福。
私たち一人ひとりが、夫婦の関係を神さまのみわざとして、祝福として感謝して歩む者でありたいと願います。
夫婦の始まりは、神の祝福のみわざの始まりだったのです。
なお、この動画は若葉聖書バプテスト教会での礼拝説教(2023年6月4日)です。
筆者プロフィール
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27歳の時、婚約者との擦れ違いを解決できず結婚目前で婚約解消。
その後、この婚約解消の二の舞を踏まぬよう男女関係や夫婦関係修復の法則を聖書から学ぶように。
2010年、夫婦関係修復カウンセラーとして独立。延べ1,000人以上の夫婦をカウンセリングし離婚危機から救う。
現在は、妻に惚れこむ二児の父。
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